寂しい運動会
両親の来ない運動会
多分、小学校2年生の時の運動会。
2年生と言えば弟が産まれ、入院して手術して・・・両親は有給をめい一杯使ったであろう。
私が子供の頃は運動会と言えば秋!
予定日に雨が降り、運動会が延期になった。
しかも平日。
両親は仕事で来られない、そして親戚のおばさんが来てくれた。
同級生は皆両親とまではいかなくとも、お母さんが来てくれている子が多かった気がする。
私は両親ではなくおばさん。
今でも忘れない・・・おばさんが作ってきてくれた可愛いてまり寿司。
でも、おばさんには悪いけど寂しかった。
寂しいという気持ちは誰にも言えず、心の中に仕舞っておいた。
今でも仕舞ってある。
両親は私の事なんて本当にどうでもいいんじゃないか?私は本当の子供じゃないんじゃないか?と日々思っていた。
寂しくても「寂しい」と言ってはいけない雰囲気だけは敏感に感じ、いつも一人だった気がする。
弟の入院
私は一人でお留守番
弟は色々な病院にへ行った結果、生まれつき心臓が悪いことがわかった。
そして東京の病院へ行き、入院し手術をする事になった。
産まれてまだ2か月位・・・可哀そうと言えば可哀そうだが、本人は何もわからない。だってまだ赤ちゃんだもん。
でも私は小学校2年生、色々な感情もある。
もちろん弟が可哀そうな気持ちもあったが、ないよりそれより弟が産まれた事により自分を取り巻く環境がガラッと変わってしまった事に戸惑いまくりだったと思う。
弟の入院に伴い母が仕事を休んで付き添ったり、祖母や親せきのおばさんが付き添ったり・・・とにかく家族総出で入院中の弟に付き添っていた。
父は足しげく病院へ通い、食事を届けたりしていた。
その食事は小学校2年生の割には料理が出来た私が作っていた。
弟が入院中の家事は子供ながらにできる範囲で、私がやっていたと思う。
それは致し方ない、自分もご飯を食べるし、洗濯だってしないと着る服が無くなってしまうし。
子供心ながらに一番納得できなかったのは、私が熱を出しても仕事を休まない母が仕事を休み弟に付き添った事だ。
大人になった今は仕方がない事、事態が大きく違う事はわかる。
でも小学校2年生の私には納得がいかず、私はどうでもいい存在なのかといつも思っていたし、母も弟も大嫌いだった。
産まれた!
お姉さんになった日
赤ちゃんが生まれた・・・弟だった。
母はしばらく入院、父は仕事で不在。
寂しくて病院に電話をしたけど、病院の人に「お母さんはまだ立てないから電話に出られないよ」と言われた。
大人になってから思った・・・普通一人で子供を家に置いておくか?
親戚に預けるとか、誰かに来てもらうとかしない??
でもそんな配慮は無く、私は一人で留守番していた。
弟と発対面したのは、退院してきてから。
感想は・・・覚えていない。
でもとりあえず抱っこはさせてもらった。
そしてまぁまぁ可愛がった。
母曰く「あんたは生きているお人形位な感じの扱いだった」そうだ。
そして弟が家に来きてから、私は小さいお母さんになった。
オムツを替えたりミルクをあげたり、背負って散歩に行ったり。
そしてそして弟が家に来てから、弟と両親の病院通いが始まった。
私はさらに孤独になった。
兄弟が出来た日
母からの告知
今でもはっきりと覚えている。
母がある日「赤ちゃんができたかもしれないから病院へ行ってくる。」と言い、出かけて行った。
私の気持ちは複雑だった。
帰ってきた母から「赤ちゃんができた、弟か妹ができるよ。」と言われた。
多分母に対しては当り障りのない返事をしたと思うが、今更嬉しくないと心の中で思っていた。
後に弟が生まれたのだが、8歳離れている。
今まで一人を満喫していた私は、はっきり言ってちっとも嬉しくなかった。
一人を満喫というか、ただでさえ親にかまってもらえず寂しい子だったのに、更に自分がかまってもらえなくなる事が嫌だったのだろう。
つわりがひどくて吐いてる母を見て、「妊娠するのって嫌だな。」とも思ったりした。
でもまぁ、妹だったらいいなとちょっとだけ思ったりもしていた。
実に複雑な心境で弟が生まれるまでの日々を過ごした。
私にとっての父その2
子供の頃の私・・・その5
父は私に対しては厳しかったけど、色々な事を教えてもくれた。
例えば車の運転。
18になる前から教習所に通わせてくれて、免許を取った後は毎晩1か月父の指導を受け車の運転の練習をした。
なので、女だけど車の運転が得意だし、上手いと言える。
それはやっぱり父のおかげである。
ちなみに早々に免許を取らせてくれたのは、飲み会の時の送迎役のため・・・だど思われる。
父は色々な物を作るのが得意だ・・・今はやり?のDIYはお手の物。
そんな父を見て育ったので、私も物作りは好きだし意外と得意である。
でもやっぱり私にとっての父は、怖い人・そして本当に親なのか??と思う人。
私はよく父から「扶養家族なんだから、家の事をちゃんとやれ。」と言われた。
扶養の意味が解らない子供時代、不要だと思っていた。
必要ないならなぜ生まれてきたんだ??といつも思っていた。
でもその家で生きて行かなきゃいけないし、それが当たり前、どの家もきっとそうなんだと思って、食事の準備や掃除・洗濯など一通りの家事はこなしていた。
物心ついた時から、遠足や部活のお弁当を作ってもらった記憶が無い。
でもそれが普通だと思っていた。
私にとっての父
子供の頃の私・・・その4
父についての子供の頃の思い出って何だろう??
特別可愛がられた覚えは無いが、未だに父は娘が可愛いらしい。
でも、よく怒られたし殴られた。
この人は私の事が憎いのか?と心の底から思っていた。
もちろん父に甘えた事なんてない。
私にはとっても厳しかったし、私がしたい事・・・例えば「英語を習いたい」と言えばダメ。
ピアノ習いたい・・・もちろんダメ。
ダメ・ダメ・ダメ
何でも反対する父だった。
習い事はお習字とスイミングはしたけど、自分が選んだ訳では無く親が選んだ習い事である。
そして遊んでもらったという記憶があまり・・・いやほぼ無い。
とりあえず怖いのでいつも顔色を伺っていた気がする。
怒られる時はげんこつのおまけつき、ひたすら耐えて何回殴られたか数えてノートに書いた事もある。
小学生の時に木の棒で足を思いっきり殴られ、3ヶ所の青あざ。
子供ながらにこれは見られたらダメだろうと思い、治るまでハイソックスを履いて学校に行った事を覚えている。
こうやって書いてみると、それ虐待でしょ?と思う事ばかり。
私にとっての母・・・その2
子供の頃の私その3
母は働き物・・・看護師だった。
ちなみに今でも看護師として働いている。
もちろん夜勤もあった。
父も夜勤のある仕事だったので、二人の勤務が夜勤で重なると夜は一人で留守番をしていた。
別に寂しくも無いし、普通の事・・・むしろ楽しく過ごしていた気がする。
でもやっぱり病気になった時は心細い。
私は扁桃腺肥大でよく高熱を出した。
熱を出した時に母に言われた事を今でもはっきりと覚えている。
「家に帰ってきてまで病人の世話をしたくない。」
だから私が熱を出して学校を休んでも、両親が仕事を休んでくれた事は無い。
たまたま仕事が休みだったり、夜勤で昼間いるときは病院へ連れて行ってくれた。
でも仕事の時は自分で病院へ行き、一人で寝ていた。
大人になって思い出すと・・・たくましい子供だったと我ながら思う。
そんな母を見て子供の頃から思っていた事「母のような大人にはなりたくない」だ。
だから絶対に看護師になんてならない、私は結婚したら専業主婦になり自分の子供にはこんな思いはさせないと思っていた。